「和紙作りは”カン”に頼るところも多いし、和紙を乾かすときは暑いし、原料を晒(さら)すときは寒い・・・というように大変で疲れる仕事。でも、誰でもできるわけではなくここでしかできない作品もあり、そういうことを誇りに思っている。大切にしていきたい”おとくいさん”もいるし、仕事自体が楽しい。・・・・これからは、昔からのやり方を守っていくと同時に、新しいものも作っていかなければいけないと思っている。」
伝統を守る

(美濃市 蕨生わらび

「・・・・家の前に板取川が流れていて、この川の水がいつも綺麗でね・・・。紙の原料となる楮(こうぞ)などを晒(さら)すのにちょうどいいし、空気も日当たりもいいので、紙を干すのにもいい。牧谷では、ずっと昔から和紙を漉いている。昔からのやり方だと能率もわるいし、仕事もきつい。でも、美しい美濃和紙を作るには昔からの手作りのほうがいいから、伝統を守っていきたい・・・。」

紙漉きがうるおったころ

(美濃市 御手洗)

「・・・・紙がよく売れた頃で、先生を辞めて、紙漉きになった。しばらくして巡査になったが、それも辞めて昭和12年ころまで紙漉きをしていた。牧谷(まきだに)は、明治30年ころから大正初期にかけてが全盛期だったといわれる。 昭和37年に美濃紙同業組合立の製紙試験場ができたが、景気がよかったので、このような施設をつくる資力があった。大正の初期には障子をガラッと開けると 20円もうかるといわれたが、サラリーマンの月給が25円か30円の時代であるから紙漉きは、とてもううるおっていたと言える。・・・・」

綺麗な水でさらすほど良い紙が

(美濃市 神洞)

「紙漉きを始めたのは学校卒業と同時で15歳のときであった。器用で一日習っただけで合間漉をしたりしてじきに覚えていった。とにかく紙を漉くのが 面白くて好きであった。三椏(みつまた)は、三日間あまり川晒しをした。清水の流れてくる綺麗な水ほど原料が良く晒されて良い紙が漉けた。お寺の裏から流れてくる水が良かった。 『一番良い紙じゃ』と言ってもらえ、値もとれた。・・・・そ頃はみんな麦飯を食っていたのに、この辺の紙屋は、米の飯を食っていた。・・・・」